« 坂本龍馬記念館 ~前編~ | トップページ | はりまや橋 »

2010年12月26日 (日)

坂本龍馬記念館 ~後編~

地下2階の資料展示室から地上階へと進んでいきます。

ここには坂本龍馬にまつわる船の模型も数多く展示してあります。

06

その中のひとつ、土佐藩船「夕顔」

慶応3年(1967年)2月29日、長崎でイギリス商人オールトから15万5000ドルで土佐藩が購入した蒸気内車型鉄製船です。

同年6月、坂本龍馬が後藤象二郎とともに長崎から京都へ向かった際、この船の中で書きあげたのがこちら、

11

「船中八策」

です。
大河ドラマ「龍馬伝」でも、とても印象深いシーンでしたよね。
龍馬がこれまでいろんな人物と接し、学んだ結晶として生まれたのがこの船中八策でした。
翌年、明治天皇から五箇条の御誓文が出されますが、この内容の基になったのがこの船中八策であるとも言われています。

10

こちらは海援隊の旗、「二曳(ニビキ)」と言います。

海援隊とは、坂本龍馬が長崎で旗揚げした「亀山社中」をベースにできた、土佐藩お抱えの海上輸送部隊であり、私設海軍部隊であり、今で言うところの貿易会社でもあります。

決して武田鉄也を中心とする3人組のフォークソング・グループじゃないのでお間違えなく。

この旗はのちに岩崎弥太郎によって作られた三菱系の海運会社「日本郵船」の社旗となり、その精神が受け継がれていて、二曳の旗は現在も世界の海を駆け巡っているんですよ。

08

2階にある展示コーナーには、龍馬が暗殺された場所、「近江屋」が再現されていました。

京都において龍馬の隠れ家であった近江屋ですが、普段龍馬は離れの土蔵に寝泊まりしていました。
というのも、いざという時、すぐさま裏口から出て墓地へ逃げ込むことができるためです。
暗殺当時、龍馬は風邪をひいていたため寒い土蔵から母屋の2階へ移っており、そこで長岡慎太郎と密談中のところを襲われたという訳です。

ところで、龍馬の暗殺に関しては今だ謎が多く、いろんな説があります。
大河ドラマ「龍馬伝」では幕府系の人間によるものと受け取りがちですが、実はいろんな含みを持たせた終わり方になっていました。

西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)も、最終回のころには、徳川家を残そうとする龍馬に対し憎悪を向けるようになっていましたよね。
幕府を武力で倒して自分たちが新政権の主導権を取りたいと考えていた薩摩藩や長州藩が、坂本龍馬の暗殺を企てる動機は十分あったと言えます。

09

こちらは屋上から眺めた景色。
桂浜ではなく、高知海岸になります。
かなり長い砂浜ですが、こちらも海水浴はできないようです。

さて、暗殺の謎に戻ります。

紀州藩も有力な説です。
いろは丸事件で坂本龍馬は紀州藩から莫大な賠償金を獲得しました。
紀州藩はこの事件で責任者であった茂田一次郎らを謹慎にする等厳しい処分を行っており、その恨みを買っていました。
暗殺直後、海援隊士であった陸奥宗光らは紀州藩家老が泊まっていた宿を襲撃していることから、紀州藩による犯行であった可能性もあります。

また、わざわざ長岡慎太郎との密談中を襲ったところに着目する説があります。
長岡慎太郎は同じ土佐藩出身「陸援隊」の頭。
陸援隊にはお尋ね者も多く、一部の土佐藩上士からは陸援隊を追放する動きもあったようです。
また、後藤象二郎は大政奉還の立役者が坂本龍馬であることを全く語っていないことから、手柄を一人占めにするため用済みの二人を亡き者にする動機があったとも考えられるのです。
暗殺するのに相手が二人だとリスクが増すはず、二人を一緒に殺してメリットがあるのは土佐藩だとする説です。

12

この他にも幕府見回り隊説や新撰組説など、いくつかの説があるようです。

いずれにしても、坂本龍馬という一人の人間によって幕末の時代が大きく動き、明治維新をもたらしたのはほぼ間違いないと言えます。

今の僕たちがこうして生活していられるのも、日本という国が他国に侵略されることなく自立してきたからであり、それには幕末を動かした人物たち、特に坂本龍馬の存在はとても欠かせないものであったと言えるのです。

屋上に立ち、雲間から光が射しこむ広い太平洋を眺めながら、そんなことを考えさせられた、高知県立坂本龍馬記念館でした。

高知県立坂本龍馬記念館公式サイトはこちら。
      (上の文字をクリック)

|

« 坂本龍馬記念館 ~前編~ | トップページ | はりまや橋 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 坂本龍馬記念館 ~後編~:

« 坂本龍馬記念館 ~前編~ | トップページ | はりまや橋 »