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2012年7月16日 (月)

蛍屋 ~ 金沢・ひがし茶屋街より

金沢といえば加賀百万石の城下町。
戦国時代から北陸の中心として栄えてきました。

日本三大庭園の一つ、兼六園は余りにも有名。
金沢城址、香林坊をはじめ、金沢の町自体が文化遺産といっても過言ではありませんよね。

今回は出張のため観光はできませんでしたが、夜の食事だけでも金沢気分をということで、市内・ひがし茶屋街というところにある、

「蛍屋(ほたるや)」

というお店で加賀料理なるものを頂いて参りました。

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ところで、金沢には江戸時代より栄えてきた茶屋街がそのまま残っています。

現在も3つの茶屋街が残っているのですが、この茶屋町を語るためには、まず金沢の地理と歴史を勉強する必要があります。

加賀の藩主は前田家ですよね。
この地を前田家が統治することになったのは、戦国時代に活躍した前田利家からです。

もともとは織田信長の一家臣だった前田利家がどのようにして加賀大名になったのでしょう。
利家は、元々尾張国の一領主であった前田利昌の4男として誕生します。
そして1951年、16歳の年で織田信長の家臣となります。
信長に仕えていた時代はいわゆる「かぶき者」だったようで、戦においても数々の武功を建てたようです。

良妻として有名な「まつ」とは21歳のときに結婚。
ちなみに、まつは12歳だったようです。
12歳で結婚、翌年13歳の時には子供を産むなんて、今の時代では絶対あり得ないですよね。

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さて、このころ加賀・越前では一向一揆により混乱が生じていました。
それを鎮め、領地とするため信長はこれらの討伐を行うのですが、利家もこの討伐に加わります。
このときの武功より利家は越前府中(福井県越前市)の大名、その後能登国の大名となります。

その後信長が暗殺されると、羽柴秀吉柴田勝家の覇権争いに巻き込まれることとなります(賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い)。
最初は同じ越前を守備していた勝家側に就いていました。
しかし、秀吉と利家は旧知の仲でもあり、利家としては信長の家臣同士の争いで、どちらかに加担するのは堪えられなかったのでしょう。
途中で戦線離脱してしまいます。
しかしこれがきっかけで秀吉側の勝利を決定づけたとも言われています。

結局利家はこの戦いの後、それまで金沢城主だった佐久間盛政に代わって入城することとなり、前田家は加賀国の大名として江戸時代まで繁栄することとなったのです。

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金沢の茶屋街は、江戸時代に防衛戦略上の理由から作られたと言われています。

金沢のポータルサイト「まるごと金沢」によると、
1820年、12代藩主・前田斉広(なりなが)の頃、正式に茶屋町の町割りができたとあります。
金沢城は浅野川と犀川に挟まれた小高い丘に建てられていました。

今も残る「ひがし茶屋」は金沢城から見て浅野川の対岸に、「にし茶屋」は犀川の対岸に配置されています。
また「ひがし茶屋」のすぐ近くは「卯辰山寺院群」、「にし茶屋」のすぐ近くには「寺町寺院群」があります。

つまり、前田斉広は浅野川と犀川の外側にこれらの寺院群と茶屋街を置くことで、2つの川に挟まれた金沢城下の安心・安全を担保しようとしたんですね。

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一方、3つめの茶屋街、「主計町(かずえまち)茶屋街」は明治時代にできた茶屋街です。
ひがし茶屋街から歩いて10分弱、浅野川大橋を渡ったところにあります。

町名の由来は、かつてここに加賀藩士・富田主計 (とだかずえ)の屋敷があったことに由来します。
さらに、1999年10月以前までここの住所は尾張2丁目でした。
10月1日に、全国で初めて旧町名を復活させたのだそうです。

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前説がかなり長くなってしまいました。
いい加減、話を本題に戻しましょう。

蛍屋の料理は、どれも上品で優しい味付けだなって思いました。

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まずは先付けとビールでスタートです。

というところで、紙面が無くなってしまいました。
本格的料理はこれからですが、この続きは次回とします。

ではまた。

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